【ブラタモリ】織物の町、西陣はなぜ応仁の乱の後に発展したか [テレビ]
6月29日放送のブラタモリは京都の西陣が特集されました。
西陣と言えば、西陣織と呼ばれる綺麗な織物が有名ですよね。
今回のお題は「織物の町・西陣はどうできた?」。
「西陣」という地名の由来なども紹介されていて、一度歩いてみたい町だなぁと思ったのでまとめてみたいと思います。

●西陣織とは
今回のブラタモリのスタート地点は、京都の本隆寺近くの通り。
タモリさんは近くに何度も通っているお蕎麦屋さんがあるそうです。
さすがですね~。
しかしそんなタモリさんでも、なぜ西陣が織物の名産地として発展したのかはわからないとのことでした。。
西陣の案内人、一人目は生まれも育ちもここ西陣だという鳥井光広さん。
普段から西陣周辺の観光ガイドをしているそうです。
もちろん西陣織は日本の伝統的な高級織物として有名ですよね。
1993年にご結婚された現在の天皇皇后両陛下ですが、その「結婚の儀」で皇后 雅子様がお召しになっていた十二単は西陣織です。
また、以前このブログの「世界ふしぎ発見!皇室ゆかりの地をめぐるロイヤルツーリズム」のまとめなどでも紹介された東京の迎賓館 赤坂離宮でも、「花鳥の間」の内装として西陣織の布が使われています。
さらに、日本の伝統芸能である能の衣装や、舞妓さんのだらりの帯も西陣織が使われることが多いそうです。
ただ、西陣織とは「西陣織」という名前の織り方があるのではなく、西陣という地域で織られた布の総称を「西陣織」といいます。
例えば、番組で紹介されていた織り方としては。。。
・緯錦(ぬきにしき):中国大陸から紀元前200年頃に伝来したという歴史ある織り方です。
・ビロード:ポルトガルから伝来し、織田信長が好んだそうです。
他にも西陣織の長い歴史の中で様々な織り方が生まれ、発展してきたそうです。
番組では実際に西陣の織り子の方の伝統の織り方が紹介されました。
実践していたのは織り子の森紗恵子さん。
森さんの織り方は、つづれ織りの中でも特殊な織り方である「爪掻本綴織(つめがきほんつづれおり)」というものです。
織り機を使いながら縦糸に横糸を挟んでいきますが、大きなところは織り機自体で詰め、模様が入る部分は櫛(くし)のような道具で詰めていきます。
そしてさらに細かい模様を織る部分は、なんと自分の指の爪に施したギザギザで横糸を詰めていくのです。
これがまさに爪掻本綴織(つめがきほんつづれおり)の名前の由来ですね。
爪を使って織る工程はとても手間がかかり、1日やっても5cm程度進めるのがやっとなのだそうです。
織り方にもよりますが、西陣織は20以上の工程に細かく分かれていて、そのそれぞれの工程に熟練の職人がいるのです。
それらの職人たちがそれぞれの工程を順番に繋いでいくことで一反の織物が作られるのです。
●「西陣」の地名の由来
二人目の案内人は、ブラタモリにはもう8回目の登場という、京都高低差崖会、崖長の梅林秀行さんです。
梅林さんが説明してくれるのは、西陣という地名の由来。
実は単純明快で、西陣の地名は京都を東西に二分して戦われた「応仁の乱」の西の本陣があった場所だったことに由来しています。
応仁の乱は、室町時代後期、京都を東軍と西軍に二分し
京都全土を焼け野原にした戦です。
東軍の大将は細川勝元、西軍は山名宗全です。
山名宗全邸跡には現在石碑がありますが、ここが正に西陣という地名が始まった場所なのです。
番組では、「上杉本洛中洛外図屏風」という、応仁の乱が起きていた当時の京都市街の様子を極めて正確に描いた屏風絵が紹介されました。
この屏風絵に描かれた、幅数メートルの小さな川が東軍と西軍を分けた境界線だったのです。
東軍・細川勝元の屋敷も、西軍・山名宗全の邸宅も、川を挟んですぐそばにありました。
タモリさん一行は、今も残る川の痕跡を訪ねていました。
川は既に暗渠化されていますが、現在も欄干が残っていました。
欄干のそばには東軍の大将、細川勝元の本陣屋敷がありました。
またそのそばの「百々橋(どどばし)」には橋の橋脚をはめ込む礎石が展示してあります。
この百々橋あたりは、応仁の乱の激戦地だったそうで、小さな橋を挟んで大きな軍勢が戦ったそうです。
百々橋の近くには西軍の本陣、山名宗全の自宅もありました。
応仁の乱の発端は百々橋のかかる小川を挟んだご近所同士の相続争いでした。
ご近所の揉め事がさらに争いを生み、大規模に膨れ上がっていきました。
京都全土が巻き込まれ、京都の半分を焼き尽くした頃、誰のために戦っているのか、誰もよくわからない状況となり、勝者も敗者もはっきりすることなく終結したといいます。
タモリさんも「変な戦」とおっしゃっていましたね。
巻き込まれた人々はたまったものではありませんが。。。
●応仁の乱からなぜ西陣の織物技術が発展したか
応仁の乱により、京都の西陣あたりの人々は多くが避難しました。
その一部は当時大発展していた大阪の堺に逃げ、その地で織物技術を学びました。
戦が終わると彼らは西陣に戻り、織物を始めたのです。
タモリさん一行は、鞍馬口通(くらまぐちどおり)を歩き、船岡山という山に登ります。
船岡山の大きな石には、かなり風化してしまっていますが仏様が描かれています。
京都の端に位置する船岡山は、長い間京都の人々のお墓の役割を務めていたのです。
船岡山をあの世の入り口と考えていた京都の人々は、それまで船岡山の近くに住んでいませんでした。
しかし、西陣の人々は、織物の街として繁栄すると、街を拡大して船岡山のふもとまで西陣エリアを拡大させたのです。
このように、利用可能な土地が近くにあったことが、西陣が繁栄したひとつの要因だったのだそうです。
●西陣が本格的に発展した江戸時代
応仁の乱から時が経ち、江戸時代になると西陣は織物の街として大繁栄しました。
今も残る「千両ヶ辻(せんりょうがつじ)」という通りでは、1日に千両(今の価値で6千万円あまり)儲かったという逸話があり、通りの名前の由来となっています。
通りには今も軒が連なった建物が残っています。
ここでは江戸時代中期から280年も続く帯問屋の十代目、木村正也さんが登場。
木村さん宅に残る江戸時代のお客様台帳には、皇室の菊の御紋、徳川家の家紋三つ葉葵の帯文様、井伊家の家紋などの見本が残されています。
しかし、幕末になると徳川幕府は明治維新により大政奉還。
明治時代となると天皇陛下が東京へ行ってしまうと同時に公家たちも東京に移り住み、西陣織の大口のお客様が京都から居なくなる事態となってしまいました。
この西陣織のピンチを救ったのはフランスの「ジャカード織」の最新自動織り機。
それまでは手間と時間がかかり、一般の人には手の届かない高価な商品だった西陣織ですが、「ジャカード織」を導入することで作業を効率化しました。
パンチカードという部品による自動制御によって織り機を半自動化。
この技術により品質はそのままに手間と時間を省き、効率は4倍にアップしたそうです。
一般の人でも西陣織を手に入れられるようになり、明治35年頃から西陣織の経営は復活しました。
このころから西陣で働く職人たちが急増し、京都にあった屋敷の土地を分割して職人たちの町屋が作られました。
このことでできた複雑な町屋の並びは、一つの入り口の先にたくさんの家がある京都の街並みとして今も残っています。
西陣は、時代が移り変わっても、その時々の時代の流れに乗ることで今に至るまで織物の街として発展してきたのですね。
神秘的な船岡山なども含めて、一度歩いてみたい街です。
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西陣と言えば、西陣織と呼ばれる綺麗な織物が有名ですよね。
今回のお題は「織物の町・西陣はどうできた?」。
「西陣」という地名の由来なども紹介されていて、一度歩いてみたい町だなぁと思ったのでまとめてみたいと思います。

●西陣織とは
今回のブラタモリのスタート地点は、京都の本隆寺近くの通り。
タモリさんは近くに何度も通っているお蕎麦屋さんがあるそうです。
さすがですね~。
しかしそんなタモリさんでも、なぜ西陣が織物の名産地として発展したのかはわからないとのことでした。。
西陣の案内人、一人目は生まれも育ちもここ西陣だという鳥井光広さん。
普段から西陣周辺の観光ガイドをしているそうです。
もちろん西陣織は日本の伝統的な高級織物として有名ですよね。
1993年にご結婚された現在の天皇皇后両陛下ですが、その「結婚の儀」で皇后 雅子様がお召しになっていた十二単は西陣織です。
また、以前このブログの「世界ふしぎ発見!皇室ゆかりの地をめぐるロイヤルツーリズム」のまとめなどでも紹介された東京の迎賓館 赤坂離宮でも、「花鳥の間」の内装として西陣織の布が使われています。
さらに、日本の伝統芸能である能の衣装や、舞妓さんのだらりの帯も西陣織が使われることが多いそうです。
ただ、西陣織とは「西陣織」という名前の織り方があるのではなく、西陣という地域で織られた布の総称を「西陣織」といいます。
例えば、番組で紹介されていた織り方としては。。。
・緯錦(ぬきにしき):中国大陸から紀元前200年頃に伝来したという歴史ある織り方です。
・ビロード:ポルトガルから伝来し、織田信長が好んだそうです。
他にも西陣織の長い歴史の中で様々な織り方が生まれ、発展してきたそうです。
番組では実際に西陣の織り子の方の伝統の織り方が紹介されました。
実践していたのは織り子の森紗恵子さん。
森さんの織り方は、つづれ織りの中でも特殊な織り方である「爪掻本綴織(つめがきほんつづれおり)」というものです。
織り機を使いながら縦糸に横糸を挟んでいきますが、大きなところは織り機自体で詰め、模様が入る部分は櫛(くし)のような道具で詰めていきます。
そしてさらに細かい模様を織る部分は、なんと自分の指の爪に施したギザギザで横糸を詰めていくのです。
これがまさに爪掻本綴織(つめがきほんつづれおり)の名前の由来ですね。
爪を使って織る工程はとても手間がかかり、1日やっても5cm程度進めるのがやっとなのだそうです。
織り方にもよりますが、西陣織は20以上の工程に細かく分かれていて、そのそれぞれの工程に熟練の職人がいるのです。
それらの職人たちがそれぞれの工程を順番に繋いでいくことで一反の織物が作られるのです。
●「西陣」の地名の由来
二人目の案内人は、ブラタモリにはもう8回目の登場という、京都高低差崖会、崖長の梅林秀行さんです。
梅林さんが説明してくれるのは、西陣という地名の由来。
実は単純明快で、西陣の地名は京都を東西に二分して戦われた「応仁の乱」の西の本陣があった場所だったことに由来しています。
応仁の乱は、室町時代後期、京都を東軍と西軍に二分し
京都全土を焼け野原にした戦です。
東軍の大将は細川勝元、西軍は山名宗全です。
山名宗全邸跡には現在石碑がありますが、ここが正に西陣という地名が始まった場所なのです。
番組では、「上杉本洛中洛外図屏風」という、応仁の乱が起きていた当時の京都市街の様子を極めて正確に描いた屏風絵が紹介されました。
この屏風絵に描かれた、幅数メートルの小さな川が東軍と西軍を分けた境界線だったのです。
東軍・細川勝元の屋敷も、西軍・山名宗全の邸宅も、川を挟んですぐそばにありました。
タモリさん一行は、今も残る川の痕跡を訪ねていました。
川は既に暗渠化されていますが、現在も欄干が残っていました。
欄干のそばには東軍の大将、細川勝元の本陣屋敷がありました。
またそのそばの「百々橋(どどばし)」には橋の橋脚をはめ込む礎石が展示してあります。
この百々橋あたりは、応仁の乱の激戦地だったそうで、小さな橋を挟んで大きな軍勢が戦ったそうです。
百々橋の近くには西軍の本陣、山名宗全の自宅もありました。
応仁の乱の発端は百々橋のかかる小川を挟んだご近所同士の相続争いでした。
ご近所の揉め事がさらに争いを生み、大規模に膨れ上がっていきました。
京都全土が巻き込まれ、京都の半分を焼き尽くした頃、誰のために戦っているのか、誰もよくわからない状況となり、勝者も敗者もはっきりすることなく終結したといいます。
タモリさんも「変な戦」とおっしゃっていましたね。
巻き込まれた人々はたまったものではありませんが。。。
●応仁の乱からなぜ西陣の織物技術が発展したか
応仁の乱により、京都の西陣あたりの人々は多くが避難しました。
その一部は当時大発展していた大阪の堺に逃げ、その地で織物技術を学びました。
戦が終わると彼らは西陣に戻り、織物を始めたのです。
タモリさん一行は、鞍馬口通(くらまぐちどおり)を歩き、船岡山という山に登ります。
船岡山の大きな石には、かなり風化してしまっていますが仏様が描かれています。
京都の端に位置する船岡山は、長い間京都の人々のお墓の役割を務めていたのです。
船岡山をあの世の入り口と考えていた京都の人々は、それまで船岡山の近くに住んでいませんでした。
しかし、西陣の人々は、織物の街として繁栄すると、街を拡大して船岡山のふもとまで西陣エリアを拡大させたのです。
このように、利用可能な土地が近くにあったことが、西陣が繁栄したひとつの要因だったのだそうです。
●西陣が本格的に発展した江戸時代
応仁の乱から時が経ち、江戸時代になると西陣は織物の街として大繁栄しました。
今も残る「千両ヶ辻(せんりょうがつじ)」という通りでは、1日に千両(今の価値で6千万円あまり)儲かったという逸話があり、通りの名前の由来となっています。
通りには今も軒が連なった建物が残っています。
ここでは江戸時代中期から280年も続く帯問屋の十代目、木村正也さんが登場。
木村さん宅に残る江戸時代のお客様台帳には、皇室の菊の御紋、徳川家の家紋三つ葉葵の帯文様、井伊家の家紋などの見本が残されています。
しかし、幕末になると徳川幕府は明治維新により大政奉還。
明治時代となると天皇陛下が東京へ行ってしまうと同時に公家たちも東京に移り住み、西陣織の大口のお客様が京都から居なくなる事態となってしまいました。
この西陣織のピンチを救ったのはフランスの「ジャカード織」の最新自動織り機。
それまでは手間と時間がかかり、一般の人には手の届かない高価な商品だった西陣織ですが、「ジャカード織」を導入することで作業を効率化しました。
パンチカードという部品による自動制御によって織り機を半自動化。
この技術により品質はそのままに手間と時間を省き、効率は4倍にアップしたそうです。
一般の人でも西陣織を手に入れられるようになり、明治35年頃から西陣織の経営は復活しました。
このころから西陣で働く職人たちが急増し、京都にあった屋敷の土地を分割して職人たちの町屋が作られました。
このことでできた複雑な町屋の並びは、一つの入り口の先にたくさんの家がある京都の街並みとして今も残っています。
西陣は、時代が移り変わっても、その時々の時代の流れに乗ることで今に至るまで織物の街として発展してきたのですね。
神秘的な船岡山なども含めて、一度歩いてみたい街です。
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2019-08-16 00:09
nice!(171)
コメント(2)
ブラタモリをボーっと見ていたので細かいことが頭に入らなかったのですが、本記事で再確認できました。
by 我流麺童 (2019-08-16 06:21)
我流麺童さん
コメントありがとうございます!
ブラタモリはCMがないので、ぼーっとしてるといつの間にかすごく進んでたりしますよね。。。私はいつも録画しています!
by koo (2019-08-16 23:34)