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ウィキペディアのおもしろ記事、機能紹介【マツコの知らない世界】 [テレビ]

現在、最強クラスの台風が関東に近づいています。。。
関東圏の皆様は身の安全を第一に行動してくださいね。


さて、2019年9月3日放送の「マツコの知らない世界」(TBS系)では、
「ウィキペディアの世界」と「カニカマの世界」が放送されました。

特に「ウィキペディアの世界」がおもしろかったので、紹介された記事や機能を紹介したいと思います。

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【カネオくん】日本を訪れる外国人はどこで大金を使っているのか? [テレビ]

最近、土曜日のブラタモリがお休みですね。

8月31日は、その枠で「有吉のお金発見 突撃!カネオくん」という番組がやっていました。

今年2019年の4月からNHKで放送が始まった、
MC有吉さんと番組キャラクター「カネオくん」(声は千鳥のノブさん!)がゲストと
「お金にまつわるヒミツ」を探る番組です。

同じくキャラクターが登場するNHKの「チコちゃんに叱られる!」のような
人気番組を目指しているようですね。


通常は土曜日の20:15~20:45ですが、この日はブラタモリの枠の使って73分のスペシャル。
テーマは「外国人観光客のお金の使いみちを大調査SP」。


急増している外国人観光客が、

実は日本人の全然知らないところで大きなお金を使っている!

というおもしろい内容だったので、まとめてみたいと思います!



●増え続ける外国人観光客

この5年間で訪日外国人の数は3倍に増え、昨年は過去最高の3,000万人を突破したそうです。

それに伴い外国人が日本で使うお金も増え続け、その額は年間4兆5,000億円超え!

そんな外国人たちはどこでお金を使っているのか?

ドラッグストアや家電量販店で日本製の製品を大量に買い込む姿は、もう良く知られていますよね。

しかし、最近では日本人のほとんどが想像もしないようなところで大金を使っていたのです。





●日本の宝石を爆買いする外国人!

まず 最初の舞台は、東京・御徒町。
御徒町は日本人にも有名な、宝石の街ですよね。

「ジュエリータウンおかちまち」と呼ばれるエリアの中に、およそ200軒もの宝石店があります。

中国やインドの観光客が御徒町で宝石をたくさん買っています。
しかし、宝石店の買い物は全体のごく一部。

yubiwa_ruby.png

本当にすごいのは、宝石商人のオークションだったのです。

御徒町の路地を入ったあるビルの上階は、宝石のオークション会場。

ここでは宝石のオークションが月に1度開催されています。
もちろん日本人によるオークションなのですが、およそ60人ほどの参加者のうち半数近くが外国人。

ダイヤやルビーなど4,800品以上のジュエリーが出品されており、
取材した日の落札額の合計は、2億7000万円!

一人で2000万円を購入した中国人男性もいました。

なぜ、外国の宝石商人がわざわざ日本で宝石を買うのか?

日本では今、価値の高い宝石が多く売られており、狙い目のマーケットなのです。

その理由は、バブルで日本に集まった宝石が市場に流通しだしたから。

1980年代後半から日本中が熱狂したバブル景気。
当時の日本のお金持ちたちは、海外から多くの宝石を高値で購入。

それにより 世界中から価値の高い宝石が日本に集まったのです。

その時買った人が高齢となり、もう使わない、譲る人がいない、ということで
今、日本のマーケットには良質な宝石が多く流通しているのです。

そして、爆買いに拍車をかけているのが宝石の価格高騰です。

ルビー、サファイア、エメラルドといったカラーストーンの採掘量が
世界的に減少傾向にあることもあり、今後も宝石の価格は上がると見られており
それを見越して投資目的で買いに来る外国人も多いのだそうです。

かつて150~200万円で取り引きされていた宝石も
今すでに700~800万円になっているケースもあります。

5~6倍とは、すごいですよね!
日本人も宝石に投資をしたほうがいいのかも。。。




●重機を爆買いする外国人!

続いての爆買いの舞台は、千葉県山武市。

成田空港から車でおよそ30分。
外国人どころか日本人もあまりいないような田んぼの風景が広がっています。

その中の土地に、クレーン車やショベルカーなどが何台も並んでいる場所が。

工事現場で使う重機の中古品を扱うオークション会場です。

juuki-auction.jpg
https://twitter.com/hashtag/%E9%87%8D%E6%A9%9F%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

今、日本製の中古の重機を求め、外国人が殺到しているのだそうです。

東南アジアやオーストラリア、ニュージーランドなどから多くの外国人が来ています。

まず紹介された2004年製のショベルカー。
250万円から始まり・・・470万円で落札!

この日の最高落札額は、2005年製のクレーン車で2480万円。

今回、2日に渡るオークションで616台が完売。
その落札合計金額は、22億円。

来場していた外国の方の話では、新品で買うと2000万円もするのがここでは200~300万円ほどで買えるそうです。

フィジーから来た方は、旅費が50万円ほどかかっても十分に元がとれるのだとか。

そして、この方々がわざわざ買いに来る理由は安さだけでなく、
ユーズド・イン・ジャパン」だからです。

「ユーズド・イン・ジャパン」は、日本で使用されていた製品ということを表す言葉。

海外では、「日本で使われていた」=「性能がよく整備もしっかりされていて状態がいい」とということでかなり信頼されているそうです。


そして、会場で目立つのは2006年以前の型の重機。
2007年以降の型よりも、2006年以前の型のほうが人気が高く、高値が付くのだそうです。

ここでクイズ、なぜ2006年以前の型が外国人に人気なのか?





正解は・・・

現地の軽油でも使えるから!


重機は燃料に軽油を使うものがほとんどですが、
日本では2006年に重機などの排出ガスの規制を強化する法律ができ、
新たに作られる重機は環境にやさしい軽油の使用が前提とされました。

しかし、このことで海外の軽油を入れると重機が不具合を起こしてしまうことがあるんだとか。

そのため、海外では2006年以前の型の日本製重機が人気なのだそうです。



●着物生地を爆買いする外国人!

続いての舞台は、東京・日暮里。

ここ日暮里で外国人たちが爆買いしているのは、着物の生地です。

着物をリメークして作った帽子がSNS上で話題になったり
着物生地で作ったボトルウェアが外国人旅行客のお土産として人気になるなど
着物生地が海外で話題になっているのです。

fashion_kimono_tanmono.png

着物生地の街、日暮里で特に多いのが、ミャンマーからの観光客。

特に女性が多く、彼女たちのお目当てはロンジーのための着物生地です。

ロンジーとは1枚の布を腰に巻いてスカートのように着るミャンマーの民族衣装です。

このロンジーを着物生地で作るのがミャンマーで大流行しているのです。

ミャンマーから来たある女性は、
「今、ミャンマー人で日暮里を知らない人はいないのでは」
というほど、日暮里の着物生地が人気なのだとか。

日暮里の中でも特にミャンマー人が集まると噂のお店が。

来るお客さんのうちの90%が外国人、そのうちの60%くらいがミャンマーからの方です。

なぜこんなに外国人に人気なのかというと、パック売りだからだそうです。

普通、生地屋さんはロール状の生地からお客さんが必要な長さだけ切って買うという
はかり売りが一般的ですが、これだと日本語が話せない外国人には難しいのです。

それを解消するために、こちらのお店ではあらかじめ
ロンジー1枚を作るのに必要なサイズの生地を個別に包装し、販売しているのです。

こうすることで日本語がわからないお客さんも
デザインを選んで簡単に購入できるというわけです。




●外国人観光客増加率トップ3の県の秘密

5年間で訪日外国人は大きく増加していますが、
5年間の外国人観光客の都道府県別増加率ランキングを見てみると、

大阪府:25位
京都府:42位
東京都:45位(下から3番目)

と大都市は意外と伸びていません。
もともと多かったのがその理由でしょう。

では、最も伸びている都道府県はどこなのか?上位を見てみると・・・

1位:青森県
2位:佐賀県
3位:岡山県

なぜこれらの県を訪れる外国人が増えたのか、その秘密が紹介されました。




●岡山県産のジーンズを買いに来る外国人

外国人観光客の伸び率ランキング、第3位は岡山県。

この5年で岡山に宿泊した外国人は11万960人から46万9, 460人へ、
4.2倍に急増しています。

外国人観光客数アップの大きな要因となったのは・・・

岡山県産のジーンズ

中でも ジーンズ作りが特に盛んなのが
岡山県第2の都市、倉敷市の児島地区です。

「児島ジーンズストリート」という通りは、
ジーンズショップが400mの通りに40店舗も集まっており
年間売り上げは、20億円にも上ります。

kojima-jeans.jpg
https://tokuhain.arukikata.co.jp/okayama/2018/03/post_25.html

カナダやアメリカからも児島のジーンズをわざわざ買いに来る人々がいるのです。

この倉敷は、日本のジーンズ発祥の地です。

1965年、倉敷のビッグジョンで日本で初めてのジーンズが作られました。

そもそも 倉敷を中心に綿花の栽培が盛んで、明治以降 紡績業で栄えてきた岡山県。
1920年代には学生服の生産で日本一になりました。
1960年代に入ると、アメリカの若者がはいていたジーンズが日本でも大流行。
このブームを受け、岡山で初めて国産のジーンズが作られたのです。
当時はデニムの生地が日本になかったので、輸入した記事を岡山で縫製しました。


しかし、なぜ岡山県のジーンズがこれほど世界で人気が出たのか?

それは・・・


ユーズド加工技術が世界最高峰だからです。

ユーズド加工とは、新品のジーンズをあえて破ったり、色落ちさせることで着古した感じを出す加工のこと。
まっさらな新品よりも年季の入ったものを好む人が多いジーンズならではの加工です。

岡山のユーズド加工のクオリティーと技術の多彩さは世界トップレベルです。

児島地区のジーンズ柄のタクシーも登場し、岡山ジーンズのユーズド加工の工場が紹介されました。

ユーズド加工で欠かせないのが色落ち。

そこで使われるのが大型の特別な洗濯機。
ここにジーンズと軽石を入れて回すのです。

これはストーンウォッシュという世界的にもメジャーな手法なのですが、
実は岡山で世界で初めて行われたのです。

1960年代に岡山から始まった国産ジーンズの製造でしたが、
当時人気だったのは新品ではなく、アメリカ人がはいていたような古着感のあるジーンズ。

なんとか新品でもいい感じの古着感を出せないかと
思いつきで 軽石と一緒に洗ったのが始まりだったといいます。

そしてこれが大当たり!

程よい色落ちで若者を中心に大ヒットし、その後
ストーンウォッシュは岡山から世界に広がったのです。

ストーンウォッシュではジーンズ50本に対して40kgもの軽石が使われます。

他にも、ヒゲと呼ばれるジーンズのシワを作る作業は、
職人さんが1本ずつ手作業で新品のジーンズにヒゲをつけます。

一見簡単そうですが、生地のコンディションを見極める熟練の技が必要とされるのだそうです。

そしてアイロン立体と呼ばれる加工は、アイロンの蒸気を使って膝裏などにはき込んだかのような自然なシワをつけます。

さらに、ヤスリで生地を薄くしたり、穴を開けるクラッシュ加工。

炎で焦げをつけたり、毛羽だった繊維を燃やして肌触りを良くするバーナー加工。

などなど…

さまざまな手作業の加工を経て出来上がる岡山のジーンズは、世界で唯一のものになります。

そのお値段は、多少高めでも世界中からファンが買いに来るというわけです。



●佐賀県のドラマロケ地を訪れる外国人!

外国人訪問客の伸び率第二位は、佐賀県。

佐賀県の外国人宿泊者数は、5年前の9万940人と比べ昨年は39万1, 900人、
4.2倍に増えました。

今、外国人が大挙して押し寄せているのは、佐賀国際空港から車で1時間、

佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)です。

yuutoku.jpg
http://www.tabirai.net/sightseeing/tatsujin/0000571.aspx

ここには、タイからの観光客が大勢。

その理由は、タイの有名ドラマのロケ地だったからです。

外国にも佐賀の魅力を知ってもらうべく、
県を挙げて海外ドラマのロケ誘致に取り組んだところ、
タイのドラマのロケ地にこの神社が使われドラマはタイ国内で大ヒットしました。

そのドラマが「STAY Saga ~わたしが恋した佐賀~」

2015年にインターネットで配信されたこのドラマは、
佐賀県にホームステイするタイ人のラブストーリーです。

タイ国内だけで 1,000万再生を超える大ヒットを記録。

そのおかげで、ロケ地の祐徳稲荷神社には
一日にバスで500人ものタイ人が訪れることも。

毎日がちょっとしたお祭りのような雰囲気で、周りのお店も大繁盛しているのです。

地域活性化のために、このように海外映画やドラマのロケを
誘致する活動は他の県でも行われています。

例えば、秋田県でも2009年に韓国で放送されたイ・ビョンホン主演の
IRIS(アイリス)というドラマの撮影が行われ、
韓国からの観光客増加に成功しました。


さらに佐賀の祐徳稲荷神社では、訪れたタイ人観光客が楽しめるよう
さまざまな工夫をしています。

例えば、タイ語表記の神社のパンフレット、

yuutoku-pamphlet.jpg
https://ameblo.jp/kaorun07/entry-12431575952.html

さらにお守りにもタイ語の説明、

タイ語のおみくじまであります。

お賽銭もタイの通貨がたくさん入っていました。



●青森のねぶた祭りが外国人に大人気!

外国人観光客の伸び率ランキング第一位は青森県。

5年前と比べ、外国人宿泊者数は7万4010人から34万9050人、
およそ5倍です。

要因の一つは、北海道新幹線開通で青森-函館間を1時間で移動できるようになり、
青森と函館のセットツアーが人気になったこと

しかし何より人気なのが、「ねぶた祭り」です。

nebuta.jpg
https://omatsurijapan.com/blog/nebuta01/

毎年およそ300万人が集まる日本最大級のお祭り。

実はねぶたはニューヨークやロンドン、ハワイでお披露目されたこともあり、
多くの外国人に知られているのです。

見よう見まねで飛び入り参加できるところもねぶた祭りの醍醐味の一つ。

武士や龍が描かれた巨大なねぶたはインパクトもあり、
外国人観光客に大人気なのです。


番組では、ねぶた作りが行われるねぶた小屋が紹介されました。
春先から公園の一角にねぶた小屋が建てられ、
祭りを練り歩く22台のねぶた全てがおよそ3か月の間に作られます。

小屋の中には入れませんが、小窓からねぶたを作っている様子を覗けるため、
ねぶたに興味津々の外国人たちの人気スポットとなっています。

番組では許可を得て小屋の中に入り、制作中のねぶたを見学。

nebuta-making.jpg
https://blogs.yahoo.co.jp/skywave_nb/50057441.html

ねぶた師の立田龍宝さんが紹介されました。
ねぶた師は、ねぶたの設計から製作まで、全般を担当する、ねぶた作りのプロ。

ねぶたは、1枚の原画という絵から作られ、設計図などはありません。

nebuta-genga.jpg
https://blogs.yahoo.co.jp/skywave_nb/50735050.html

技術と経験により、高さ5m 幅9m 奥行き7mの
立体的なねぶたが作られていくのです。

骨組み作りから始まり、和紙を貼り付け、色を塗り…

様々な工程を経てねぶたは完成。

全ての工程が手作業で、約3か月かけて作られます。

そんなに手間暇かけて作ったねぶたも、
ねぶたは祭りが終わると解体されてしまいます。

ねぶた一つを製作するための費用はおよそ400万円。

更に、人件費や台車の費用も含めると、祭りにねぶたを1台出すのに
かかる費用はおよそ2,000万円!

祭りにねぶたを出しているのは地元の学校や消防団、企業など22の団体。

それぞれが寄付を集めたりスポンサーを募ったりして、
なんとかねぶたを作るお金を集めています。

ねぶた祭りの歴史は古く、青森県の文献に初めて登場するのは
今からおよそ300年前の江戸時代中期です。

いまのねぶたも迫力十分ですが、明治の初め頃までは、
今よりもずっと大きなねぶたもあったそうです。

最大のものは高さ20mあったといい、6階建てのビル相当の高さです。

こんな巨大なねぶたが作れなくなった理由は、
町に電気が通り、電線が張り巡らされたため、引っかからないように
サイズに規制が入ったためです。

青森県で計画があるかわかりませんが、電線を地下に通して無電柱化が進めば、
もしかしたらまた、今より巨大なねぶたが見られる日が来るかもしれませんね。




●宿泊の選択肢、ゲストハウス

最後に、訪日外国人の多くが宿泊の選択肢として利用するゲストハウスが紹介されました。

ホテルよりも安く、食事やルームサービスがないゲストハウスは、近年一般的になっていますよね。

中でも、日本のゲストハウスは他の国のものとは一味違うと
世界から注目されているそうなんです。

外国人に人気なのが日本家屋を使ったゲストハウス。

kamakura-guesthouse.jpg
https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g303156-d1872430-i161817551-Kamakura_Guesthouse-Kamakura_Kanagawa_Prefecture_Kanto.html

取材されたあるゲストハウスは、日本家屋を改装したもので、
20畳ほどの部屋を共同で利用するリビングと、
寝室は1階が男性、2階が女性と分かれています。

日本家屋での宿泊を通じて日本の文化や風習を体験できるのが
日本流ゲストハウスの魅力の一つ。

例えば、お客さんが自分で行う布団の用意も一つの貴重な体験なのだそうです。

1泊の宿泊料金は、3500円程度。

コストを抑えるための工夫として、浴室をシャワールームに改装し、
バスタブを撤去したそうです。

湯船を張るガス代、水道代、更に掃除の手間も削減することができます。

そして夜の夕食はゲストハウスの醍醐味ともいえるシェア飯。

日本の料理に加えて、宿泊者が作るさまざまな国の料理が一つの食卓に並ぶのです。

この日は、日本人の宿泊客が作ったさつま揚げの炊き込みご飯も。

宿泊していた日本人の女子大生は、ゲストハウスで海外の人と交流できるのが楽しみなのだそうです。

翌日はゲストハウスで意気投合したアメリカの女子大生と
鎌倉観光へ行っていました。

このゲストハウスの女将自身もかつては世界中を旅していたそうで、
有吉さんの猿岩石の旅に影響を受けて中国を自転車で回ったりしたそうです。


そして、日本のゲストハウスには世界で最も有名な旅行ガイドブックで
一流ホテルと並んで日本で泊まるべきベストな宿として紹介されているものも。

それが石川県にある、ゲストハウスPongyi。

pongyi.jpg
https://www.pongyi.com

お値段は他とあまり変わらず一泊3000円から。

人気の理由は、日本の文化を体験できるイベントです。

この日は、宿泊者皆で流しそうめん。
ほかにも日替わりで茶道や折り紙、習字といったイベントもあります。

ここでは季節に応じて日本の文化を体験できるイベントを
提供しているのです。

このようなプライスレスな体験が人気を呼んでいるのですね~。



●ゲスト紹介

この回のゲストは、
片岡愛之助さん、田中美奈子さん、ベックさん、ロッチの中岡創一さん。

愛之助さんは、歌舞伎をやっているときにやはり外国人観光客の増加を感じるそうです。
歌舞伎を見るお客さんに歌舞伎の説明をしてくれるヘッドフォンの英語版も最近登場したのだとか。

田中美奈子さんは、パラオの親善大使をやっているそうで、
パラオの元大統領の息子さんが美奈子さんの家に遊びに来ることもあるそうです。

ベックさんは、韓国出身のモデル兼タレントさん。
キルギスへ旅行してゲストハウスに泊まった経験を話していました。
登山が有名な地域で、ゲストハウスにはこれから登山する人と、
既に登った人がいて、アドバイスなどを聞けたそうです。

ロッチの中岡さんは、趣味の滝行を紹介
世界の果てまでイッテQ!のロケでよく行っているイメージがありますが、
山梨の太郎滝・次郎滝という一カ所に二つの滝がある場所が紹介されていました。

滝行は日本人でもあまりやったことのある人は多くないかもしれませんが、
白装束で滝に打たれる体験は、外国人にも受けそうですよね。




●まとめ

日本には日本人の気付かない魅力がたくさんありますよね。

2020年にはオリンピックでさらに訪日外国人が増えると言われています。

一人でも多くの方が、良い体験をして帰ってくれると良いですね!

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【ブラタモリ】阿寒湖・摩周湖、マリモやオンネトーの秘密 [テレビ]

2019年7月27日のブラタモリは北海道の阿寒摩周国立公園

前回の釧路湿原に引き続き、北海道東部の絶景が紹介されました。

今回のお題は「阿寒・摩周~"色"とりどりな宝の秘密とは?」。

有名な阿寒湖・摩周湖の他にも、アトサヌプリ火山、雌阿寒岳、オンネトーなど、あまり知られていない自然の神秘が紹介されました。。

map.png
画像:https://tsuruga-adventure.com/nationalpark


●色とりどりの宝No.1「摩周ブルー」

今回の舞台である阿寒摩周国立公園は約9万ヘクタールの敷地があり、その中には「阿寒湖」「屈斜路湖」「摩周湖」の3つの有名なカルデラ湖と4つの火山があります。

番組の開始は、摩周湖の絶景を眺める展望台から。

前回、釧路湿原の回の最後には、摩周湖に釧路湿原から80kmの距離を移動してきた霧が、
「霧の摩周湖」を作り出していることが紹介されていました。

今回は晴天の摩周湖。とても深い青色をしています。

mashuuko.jpg
https://tenki.jp/suppl/romisan/2015/06/08/3301.html

まず最初の案内人は摩周湖観光協会の会長、中嶋康雄さん。

「なぜ摩周湖はこんなに青いのか、わかりますか?」とクイズ。
そこは、さすがタモリさん、「透明度ですよね」と回答します。

摩周湖の透明度は日本一です。

火山の噴火でカルデラ湖ができたのが7,000年前で、地質学的には若いカルデラ湖に分類されます。
そのため、外輪山(噴火口の周りの山)の形がきれいに残り、崖が切り立っています。
そのことで、雨水は大地の土や栄養を含まないまま、ほとんどそのまま湖に流れ込むのです。

さらに、摩周湖には流れ込んでくる川がありません。

外部から水や土砂が流入しないため、水が濁らない。
また、栄養分も流れ込まないので生物も繁殖しにくいのです。

このことで日本一の透明度を維持する摩周湖。

では、なぜ透明度が高いと青色になるのか?

それは、日光をよく反射するからです。

濁っていると反射されずに澄んだ色になりません。
そして、日光が湖の中で反射されるときに、青以外の色が吸収されるために、摩周湖は深い青色となるのです。


この摩周ブルーに惹かれ、年間50万人もの観光客が摩周湖を訪れます。
人を呼び寄せる、神秘の宝なのですね。

さて、摩周湖の青色は有名ですが、今回のテーマは「色とりどりの宝」。
タモリさんも、「青以外にあるの?」と懐疑的ですが、実は阿寒・摩周エリアには他にも多くの神秘の宝があるのです。



●色とりどりの宝No.2「黄色の硫黄」

次に向かったのは、摩周湖と屈斜路湖の中間地点にある火山「アトサヌプリ山」。

今も活発に活動するアトサヌプリには大小あわせて1,500以上の噴気孔があり、近くまで寄ることが出来ます。
至る所で熱い蒸気が噴き出す噴気孔には、黄色い硫黄の結晶があちこちに出来ていました。

これがアトサヌプリが「硫黄山」とも呼ばれる所以。

これが次の色とりどりの宝、「黄色の硫黄」です。

atosanupuri-iwosan.jpg
http://kankojapan.jp/hokkaido/doto/atosanupuri.html

これは文字通り、かつてこの地域に富をもたらした宝だったのです。

硫黄は、火薬や肥料の原料として明治28年(1895年)頃に盛んに輸出されました。

タモリさんの大好きな線路跡も紹介され、かつては硫黄山から釧路港までを結んでいたのです。
この鉄道は、現在も釧路と網走を結ぶ釧網本線(せんもうほんせん)の基礎となります。

さらに、現在は漁業で有名な釧路港ですが、もともとは硫黄を本州に運ぶための港として整備されたものだったのです。

硫黄が、北海道東部の発展に大きな役割を果たしていたのです。



●色とりどりの宝No.3「白いエゾイソツツジ」

次の宝は、硫黄山のすぐ近くの散策路。

一面に咲く、北海道固有の白いツツジである、「エゾイソツツジ」です。

ezoisotsutsuji.JPG
https://www.jalan.net/kankou/spt_01665ac2100007960/

エゾイソツツジは、本来数千メートル級の山に生息する高山植物です。

しかし、この場所は標高わずか150メートル程度。

ここにエゾイソツツジが群生している秘密には、硫黄が関わっているのです。

硫黄山、アトサヌプリがすぐ近くに見えるこの場所には、硫黄成分が風で流れてきます。
そのことで、硫黄に耐性のない高い木が枯れてしまうのです。
近くの山も、硫黄山に面している側は低い草木しかなく、反対側には木が生えています。

高い木がないことで、エゾイソツツジのような低い植物でも太陽に当たることができます。
さらに、エゾイソツツジは硫黄への耐性を持つ植物であるため、ここに群生するようになったのです。

また、このエリアは屈斜路湖のカルデラ内にあたりますが、この巨大なカルデラができる前には数千メートル級の山があったと考えられます。
火山の噴火で山が崩れた際、頂上付近に生えていたエゾイソツツジの種が残ったのが、この低地の群生の始まりとも言われています。(これに関しては、諸説あるとのことでした)



●色とりどりの宝No.4「緑のマリモ」

次の場所は、阿寒湖です。

阿寒湖と言えば、有名なのは「マリモ」。
次の案内人はマリモのスペシャリスト、釧路国際ウエットランドセンター 阿寒湖沼群・マリモ研究室室長 若菜勇さんです。

marimo.jpg
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/204523

湖付近の町は、お土産屋さんからお風呂屋さんまで、マリモを前面に押し出しています。

お土産としてマリモがたくさん売られていますが、これらは全て「養殖マリモ」です。
阿寒湖の天然のまりもは国の特別天然記念物なので、採取することが出来ません。

丸く大きなマリモができるのは世界で阿寒湖だけですが、
実は、植物の種としてはマリモも海外の藻と同じです。
お土産で売られる飼育セットのマリモは、実は海外の藻を丸めた養殖マリモだったのです。


なぜ、阿寒湖のマリモは世界で唯一丸く大きく成長するのか?

その秘密を探りに、一般の人は立ち入りできない、マリモの生育地である阿寒湖の北端、チュウルイ湾に向かいます。

チュウルイ湾には、天然のマリモが6億個。湖底に見える石ころのようなものは、実は全てマリモなのです。

このチュウルイ湾でのみマリモが生育するのは、複数の条件がそろっているからです。

まずは、広い浅瀬。
水深2メートル程度の浅瀬が湾全体に広がっていて、湖底に沈む藻へ日光が十分に届くことで、藻が生育するのです。

次に、ちょうど良い風と波。
チュウルイ湾は南に阿寒湖が広がっていて、その先の山がちょうど切れているため、南から風が常に吹き込みます。
それが波となりますが、入り江の優しい波となり、湖底のマリモをコロコロと転がすのです。
このことで丸い形でまんべんなく藻が成長していき、丸く大きく成長してゆくのです。

最大で直径30cm以上にもなるマリモですが、6cm程度になるのにも200年くらいかかると言われています。

雄大な自然が生んだ神秘なのですね。

タモリさんと林田アナは、マリモ研究のお手伝いということで、ICタグを埋め込んだマリモのタネを作っていました。
「たまりちゃん」と「まりんちゃん」と名付けられた2つのマリモは、阿寒湖に放たれて観察されるそうです。



●色とりどりの宝No.5「黒いマンガン鉱石」

最後の宝は、タモリさんが「一番すごい」と言った、玄人向けの場所。

案内人は、足寄動物化石博物館館長 澤村寛さんです。

阿寒湖の近くのオンネトーという地域にやってきます。

この一体では、雌阿寒岳(めあかんだけ)の湧き水から鉄やアルミニウムなどの成分が溶け出し、エメラルドグリーンやオレンジの沼を見ることができます。

onneto-orange.jpg
https://www.tabirai.net/sightseeing/hokkaido/tatsujin/0000119.aspx


そして今回の宝は、「黒いオンネトー湯の滝」。

この滝が黒いのは、マンガン鉱物が作られているからです。

マンガン電池や、製鉄にも使われるマンガン鉱物ですが、ほとんどは深海で作られます。
地上でこの規模のマンガン鉱物が生成されているのは、なんと世界でここだけ。

onneto-taki.jpg
https://www.instazu.com/tag/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%88%E3%83%BC%E6%B9%AF%E3%81%AE%E6%BB%9D

この黒い滝ができたのも、複数の条件がそろったからです。

まず、この滝は温泉の湯が流れていて、火山から流れた「マンガンイオン」を含んでいます。
そして、滝には藻が生えていて、マンガンを酸化させる最近と、シアノバクテリアが住み着いています。
これらがマンガンを酸化させ、二酸化マンガン(マンガン鉱物)を生成しているのです。


これらの条件がそろったのは、この場所が「末端崖」であることが関係しています。
末端崖というのは、火山の噴火で溶岩が流れ出て、それが止まったところにできる段差です。

溶岩がたまたま温泉の場所で止まり、末端崖で横幅の広い滝となったことで藻が生育したのです。

このような偶然によって、世界で唯一陸上でマンガン鉱物が発生する場所として、数年前には国の天然記念物に指定されたそうです。

さらに、シアノバクテリアというのは生物が誕生する前の地球で初めて光合成で酸素を作ったバクテリアです。

原始の地球の営みが、今もここで起きているのだと、タモリさんも興奮していました。



有名な摩周湖や阿寒湖のマリモだけでなく、地球の神秘をあちこちで見ることのできる阿寒摩周国立公園。

とても広いですから、一度ゆっくりと時間をとって見たい場所ですね。



・前回のブラタモリ
釧路湿原が湿原として保たれる秘密


・前々回のブラタモリ
織物の町、西陣はなぜ応仁の乱の後に発展したか


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【ブラタモリ】釧路湿原が湿原として保たれる秘密 [テレビ]

2019年7月20日のブラタモリは北海道の釧路湿原でした。

今回のお題は「世界に誇る釧路湿原のスゴさとは?」。

山手線がすっぽり入っても余るほど広大な「釧路湿原」。

湿原というのは木々が生い茂ると森林化してしまうそうですが、釧路湿原は4000年も湿原が保たれている珍しい湿原なのです。

今回はその秘密をまとめてみたいと思います。

kushiro.jpg
画像:http://kushiromasa.sakura.ne.jp/map.html

●4000年前は海の底!釧路湿原の成り立ち

番組冒頭では、「細岡展望台」にやってきたタモリさんと林田アナ。

広大な釧路湿原の景色を一望できる眺めに、「ここには来なければダメだ」と感動していました。

タモリさんは以前、列車から釧路湿原を見たことがあるそうですが、やはり展望台から見た釧路湿原は列車から見るのとは全然違うようです。


案内人は釧路国際ウエットランドセンター技術委員長の新庄久志さん。

釧路湿原の植物などの生態系を50年も研究している、釧路湿原のスペシャリストです。


釧路湿原は日本最大の湿原で、その面積は227平方キロメートル。
東京の山手線がすっぽり入る広さです。

有名な尾瀬の湿原(8平方キロメートル)と比べてもなんと30倍の広さ!

日本全体の湿原面積の約3割は釧路湿原が占めているのです。

そんな釧路湿原は、どうできたのか。

実は、釧路湿原ははるか昔には海でした。

おそよ6000年前に海面が低くなり、入り江の入り口に砂丘ができたことで水浸しの大地ができあがりました。

その後4000年前には湿原が完成し現在と同様の風景が広がっていたと考えられるそうです。

湿原が維持されたまま4000年も残ることは世界でも珍しいのだそうです。

1980年には、この貴重な生態系を保護するために、日本で初めて国際的な湿地保全の取り決めである「ラムサール条約」に登録されました。



●釧路湿原の中を走る釧網本線

タモリさんたち一行は展望台を降り、釧路湿原を走る釧路~網走間を結ぶ鉄道、釧網本線(せんもうほんせん)の駅へ。

駅の近くには湧き水が。

釧路湿原の地層は、かつて海の底だったため、海成段丘(かいせいだんきゅう)という砂の層でできています。

この砂の層では、染み込んだ雨水があちこちで湧き水として出てくるのです。

湧き水の源泉は推定で2万箇所以上あり、一カ所から一日に20トンの水が湧く場所もあるそうです。

こうした湧き水が豊富な水源となり、釧路湿原に水を供給しているのです。

電車に乗って湿原を行くタモリさんたち。

釧網本線は、6000年前に海の海岸線だった湿原と丘の境界から、左右に湿原が見えるところも走っています。

電車の中で案内人の新庄さんから「湿原」と「湿地」の違いは?というクイズ。

「湿原」というのは、「湿地にある草原」の意味で、植物に注目した時の呼び名なんだとか。

「湿地」の方が範囲が広いのですね。

植物学が専門の新庄さんは、やはり「湿原」に思い入れがあるようです。



●釧路湿原を潤す川

豊富な湧き水に加えて、「川」湿原を潤す重要な要素です。

釧路湿原の中を通る一級河川、釧路川をカヌーで下るタモリさん一行。

釧路川の流れは非常に穏やかで、水面は鏡のよう。

まるで流れが止まっているようです。

高低差がほとんどないためにこのような流れとなります。

水は少しでも高低差があれば流れていきますが、釧路湿原では4キロ進んで1メートルくらいの高低差しかないのだとか。

川のほとりにいた、エゾシカの親子と遭遇します。

エゾシカたちも穏やかな川のように、人間を見てもまったく動じることなく水飲みをしていました。


こうした、流れの遅い川は左右に蛇行する性質があります。

雨が降ると増水し、川がカーブするところであふれて地面を水浸しにするのです。

特別に許可を得てカーブのところに上陸するタモリさんたち。

踏み込んだところから足元に水がにじみ出し、足がはまってしまいます。

このような状態を、博多の方言で「いぼる」と言うそうです。



●なぜ釧路湿原は乾かないのか。陸地化、森林化しない理由

通常の湿原では、木が成長して森林化し、湿地が乾いて陸地化していきます。

以前紹介した阿蘇の草原では、大昔から人の手で野焼きをすることで森林化を防いでいましたよね。


しかし、釧路湿原では川沿いに木が生えても、大きくなる前に自然と枯れていることがわかります。

湿原と森がせめぎ合い、湿原が「勝っている」のです。

これが釧路湿原の最大の特徴なのだそうです。

ではなぜ湿原が森に勝てるのか。その謎を探りに釧路湿原の西側へ。


その途中の道でタンチョウの群れに遭遇したタモリさん一行。

animal_tsuru.png

ヒナ2匹を連れた珍しい親子や、編隊飛行のように飛ぶ一団をカメラに収めていました。



さて、釧路湿原の西側は立ち入り禁止区域で、特別な許可がなければ入れない場所。

服装も長靴とつなぎが一体となった特別装備で入っていきます。

西側はあたりに木が一本もない草原で、湿原が「一人勝ち」している状態です。

歩いて行くと「本格的にいぼりそう」というタモリさん。

歩くだけで沈んでいってしまうそうです。


もっと進んでいくと沈まないエリアへ。

しかし、地面の上で跳ねると地面全体が揺れます。

さらに、小川の近くでジャンプすると、小川にポコポコ空気の泡が上がってきます。

地中の空気が川の方に押し出されているのです。

こんな現象は、あまり見ないですよね。


東側で、木があった場所の地面には川が運んできた土がありましたが、
西側のこのあたりで地面を掘り起こすと、繊維状の土が出てきました。

これは、土と言うより「泥炭(でいたん)」という地層だそうです。

泥炭は、枯れた植物が堆積し、完全に分解されずに繊維状になったものです。

北海道の寒さで土中の微生物の働きが鈍いために、泥炭が生まれます。

スポンジが水を吸ったような泥炭。

釧路湿原の泥炭の層は、地中4メートルまで積み重なっているそうです。

1cm堆積するのに10年ほどかかるため、4メートルの層になるまでは4000年。

つまり、湿原が誕生した頃から泥炭が堆積していることになります。

湿原全体に堆積している泥炭は、いたるところにある水たまりの底ではゼリーのように崩れています。


泥炭の大地では川が溢れやすく、雨が降ると川の流れが簡単に変わってしまいます。

かつて川があった場所も調べると、釧路湿原全体に毛細血管のように広がっているのです。


さらに、釧路湿原の西側では、海側よりも山側のほうが標高が低く、川が山側に向かって流れています。

4000年前、湿原ができたときに海の入り江を塞いだ砂丘が高くなったことで、このような地形になったのです。

このことで、西側の川の水は一端山側に流れてから、釧路川に流れ込んでから海に流れます。


豊富に蓄えられる水と、蛇行する川。

木々が繁殖して林ができても、川が流れを変えてそこを流れると木が腐って枯れてしまうのだそうです。


こうして、林ができても川がそれをリセットして草原に。

これを4000年間繰り返すことで湿原の状態が維持されてきたのです。




●釧路湿原が生むもう一つの奇跡「霧の摩周湖」

釧路地域のもう一つの名物と言われるのが「霧」です。

海の暖流と寒流が釧路沖でぶつかることで霧が発生します。

海面を這うように釧路湿原に流れ込む霧は、日光を遮るために釧路湿原では夏でもほとんど20度を超えません。

そのため、釧路湿原には日本で唯一、氷河期の植物が今も残っているのです。


さらに、番組の最後に摩周湖を訪れたタモリさん。

布施明さんの歌でも歌われた「霧の摩周湖」の秘密を探ります。

摩周湖は海から離れていますが、なぜ霧が到達して湖を覆うのか。


そこにも、釧路湿原が大きく関わっています。

釧路湿原から摩周湖までは80kmも離れています。

しかし、霧が釧路湿原を通ると、豊富な水分によって霧が増量されるのです。

そして摩周湖まで到達し、摩周湖の霧の絶景を生むのです。




私は、北海道では、函館、札幌、小樽あたりは行ったことがあるのですが、釧路までは足を伸ばせていません。

雄大な湿原と、摩周湖の霧も見に行ってみたいですね~。(もちろん晴れの絶景も見たいですが(笑))



・前回のブラタモリ
織物の町、西陣はなぜ応仁の乱の後に発展したか

・前々回のブラタモリ
今も噴火する阿蘇、火山の見本市、お役立ち火山


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【ブラタモリ】織物の町、西陣はなぜ応仁の乱の後に発展したか [テレビ]

6月29日放送のブラタモリは京都の西陣が特集されました。

西陣と言えば、西陣織と呼ばれる綺麗な織物が有名ですよね。

今回のお題は「織物の町・西陣はどうできた?」。

「西陣」という地名の由来なども紹介されていて、一度歩いてみたい町だなぁと思ったのでまとめてみたいと思います。

fashion_kimono_tanmono.png


●西陣織とは

今回のブラタモリのスタート地点は、京都の本隆寺近くの通り。

タモリさんは近くに何度も通っているお蕎麦屋さんがあるそうです。
さすがですね~。

しかしそんなタモリさんでも、なぜ西陣が織物の名産地として発展したのかはわからないとのことでした。。

西陣の案内人、一人目は生まれも育ちもここ西陣だという鳥井光広さん。
普段から西陣周辺の観光ガイドをしているそうです。

もちろん西陣織は日本の伝統的な高級織物として有名ですよね。

1993年にご結婚された現在の天皇皇后両陛下ですが、その「結婚の儀」で皇后 雅子様がお召しになっていた十二単は西陣織です。

また、以前このブログの「世界ふしぎ発見!皇室ゆかりの地をめぐるロイヤルツーリズム」のまとめなどでも紹介された東京の迎賓館 赤坂離宮でも、「花鳥の間」の内装として西陣織の布が使われています。

さらに、日本の伝統芸能である能の衣装や、舞妓さんのだらりの帯も西陣織が使われることが多いそうです。

ただ、西陣織とは「西陣織」という名前の織り方があるのではなく、西陣という地域で織られた布の総称を「西陣織」といいます。

例えば、番組で紹介されていた織り方としては。。。
・緯錦(ぬきにしき):中国大陸から紀元前200年頃に伝来したという歴史ある織り方です。
・ビロード:ポルトガルから伝来し、織田信長が好んだそうです。

他にも西陣織の長い歴史の中で様々な織り方が生まれ、発展してきたそうです。

番組では実際に西陣の織り子の方の伝統の織り方が紹介されました。
実践していたのは織り子の森紗恵子さん。

森さんの織り方は、つづれ織りの中でも特殊な織り方である「爪掻本綴織(つめがきほんつづれおり)」というものです。

織り機を使いながら縦糸に横糸を挟んでいきますが、大きなところは織り機自体で詰め、模様が入る部分は櫛(くし)のような道具で詰めていきます。



そしてさらに細かい模様を織る部分は、なんと自分の指の爪に施したギザギザで横糸を詰めていくのです。


これがまさに爪掻本綴織(つめがきほんつづれおり)の名前の由来ですね。


爪を使って織る工程はとても手間がかかり、1日やっても5cm程度進めるのがやっとなのだそうです。



織り方にもよりますが、西陣織は20以上の工程に細かく分かれていて、そのそれぞれの工程に熟練の職人がいるのです。



それらの職人たちがそれぞれの工程を順番に繋いでいくことで一反の織物が作られるのです。



●「西陣」の地名の由来

二人目の案内人は、ブラタモリにはもう8回目の登場という、京都高低差崖会、崖長の梅林秀行さんです。

梅林さんが説明してくれるのは、西陣という地名の由来。



実は単純明快で、西陣の地名は京都を東西に二分して戦われた「応仁の乱」の西の本陣があった場所だったことに由来しています。

応仁の乱は、室町時代後期、京都を東軍と西軍に二分し

京都全土を焼け野原にした戦です。



東軍の大将は細川勝元、西軍は山名宗全です。


山名宗全邸跡には現在石碑がありますが、ここが正に西陣という地名が始まった場所なのです。



番組では、「上杉本洛中洛外図屏風」という、応仁の乱が起きていた当時の京都市街の様子を極めて正確に描いた屏風絵が紹介されました。



この屏風絵に描かれた、幅数メートルの小さな川が東軍と西軍を分けた境界線だったのです。



東軍・細川勝元の屋敷も、西軍・山名宗全の邸宅も、川を挟んですぐそばにありました。


タモリさん一行は、今も残る川の痕跡を訪ねていました。

川は既に暗渠化されていますが、現在も欄干が残っていました。

欄干のそばには東軍の大将、細川勝元の本陣屋敷がありました。

またそのそばの「百々橋(どどばし)」には橋の橋脚をはめ込む礎石が展示してあります。

この百々橋あたりは、応仁の乱の激戦地だったそうで、小さな橋を挟んで大きな軍勢が戦ったそうです。


百々橋の近くには西軍の本陣、山名宗全の自宅もありました。

応仁の乱の発端は百々橋のかかる小川を挟んだご近所同士の相続争いでした。


ご近所の揉め事がさらに争いを生み、大規模に膨れ上がっていきました。

京都全土が巻き込まれ、京都の半分を焼き尽くした頃、誰のために戦っているのか、誰もよくわからない状況となり、勝者も敗者もはっきりすることなく終結したといいます。

タモリさんも「変な戦」とおっしゃっていましたね。

巻き込まれた人々はたまったものではありませんが。。。



●応仁の乱からなぜ西陣の織物技術が発展したか

応仁の乱により、京都の西陣あたりの人々は多くが避難しました。

その一部は当時大発展していた大阪の堺に逃げ、その地で織物技術を学びました。



戦が終わると彼らは西陣に戻り、織物を始めたのです。

タモリさん一行は、鞍馬口通(くらまぐちどおり)を歩き、船岡山という山に登ります。



船岡山の大きな石には、かなり風化してしまっていますが仏様が描かれています。

京都の端に位置する船岡山は、長い間京都の人々のお墓の役割を務めていたのです。

船岡山をあの世の入り口と考えていた京都の人々は、それまで船岡山の近くに住んでいませんでした。

しかし、西陣の人々は、織物の街として繁栄すると、街を拡大して船岡山のふもとまで西陣エリアを拡大させたのです。



このように、利用可能な土地が近くにあったことが、西陣が繁栄したひとつの要因だったのだそうです。



●西陣が本格的に発展した江戸時代

応仁の乱から時が経ち、江戸時代になると西陣は織物の街として大繁栄しました。

今も残る「千両ヶ辻(せんりょうがつじ)」という通りでは、1日に千両(今の価値で6千万円あまり)儲かったという逸話があり、通りの名前の由来となっています。

通りには今も軒が連なった建物が残っています。



ここでは江戸時代中期から280年も続く帯問屋の十代目、木村正也さんが登場。



木村さん宅に残る江戸時代のお客様台帳には、皇室の菊の御紋、徳川家の家紋三つ葉葵の帯文様、井伊家の家紋などの見本が残されています。

しかし、幕末になると徳川幕府は明治維新により大政奉還。

明治時代となると天皇陛下が東京へ行ってしまうと同時に公家たちも東京に移り住み、西陣織の大口のお客様が京都から居なくなる事態となってしまいました。



この西陣織のピンチを救ったのはフランスの「ジャカード織」の最新自動織り機。

それまでは手間と時間がかかり、一般の人には手の届かない高価な商品だった西陣織ですが、「ジャカード織」を導入することで作業を効率化しました。

パンチカードという部品による自動制御によって織り機を半自動化。

この技術により品質はそのままに手間と時間を省き、効率は4倍にアップしたそうです。



一般の人でも西陣織を手に入れられるようになり、明治35年頃から西陣織の経営は復活しました。

このころから西陣で働く職人たちが急増し、京都にあった屋敷の土地を分割して職人たちの町屋が作られました。


このことでできた複雑な町屋の並びは、一つの入り口の先にたくさんの家がある京都の街並みとして今も残っています。



西陣は、時代が移り変わっても、その時々の時代の流れに乗ることで今に至るまで織物の街として発展してきたのですね。

神秘的な船岡山なども含めて、一度歩いてみたい街です。
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【ブラタモリ】今も噴火する阿蘇、火山の見本市、お役立ち火山 [テレビ]

6月29日放送のブラタモリは熊本の阿蘇でした。

今も火山活動が続いている阿蘇山のカルデラは雄大な景色が有名ですよね。

火山というともちろん怖いイメージもありますが、阿蘇の火山は私たちの生活に大いに役立っているそうです。

というわけで、今回のお題は「阿蘇は世界一の"お役立ち"火山!?

東京の人たちもお世話になっているという阿蘇の自然、興味深かったのでまとめてみます。

shizensaigai_funka.png


●阿蘇カルデラの成り立ち

阿蘇地域は直径20km以上の巨大なカルデラで、いくつもの火山活動で作られました。

大きな噴火には名前があり、大きく4つに分かれています。それらが…
Aso-1:27万年前
Aso-2:14万年前
Aso-3:12万年前
Aso-4:9万年前

特にAso-4は巨大な規模の火砕流が起き、今の地形のほとんどを形作りました。

火砕流は熊本中に広がり、海を渡った山口県にも火砕流が流れた形跡が残っているそうです。

大昔に作られたとはいえ、その火口に5万人もの人々が暮らす火山は世界的にも珍しいものです。

現在も活発な火山活動が続き、年間1000万人以上の観光客数が訪れます。



●火山の見本市

カルデラの中央の山は中央火口丘と呼ばれています。

その中に草千里というお椀型の草原がありますが、ここが実は3万年前の噴火の火口だったのです。

この時の噴火はプリニー式噴火と言われる壊滅的な噴火で、噴煙が成層圏まで到達することもある大規模なものです。
有名なイタリアのポンペイを埋めてしまったヴェスヴィオ火山の噴火もプリニー式噴火でした。

一方、草千里を一望できる展望台から振り返って反対側を見ると、
阿蘇のシンボルともいえる「米塚」が見えます。

神様が米を盛ったと言われる米塚は、その名の通り綺麗な山の形をしています。

こちらは、ストロンボリ式噴火と呼ばれる噴火でできたものです。
ストロンボリ噴火では、マグマがしぶき上に吹き上がり、火口の周りに土を盛ったような山ができるのです。

米塚は3000年ほど前にできたと推測されています。
既にこの地に住んでいたと思われている縄文人が噴火の様子を見ていたかもしれませんね。

さらに、同じ展望台からは、現在も噴火が続いている中岳も見えます。

この火山は火口にライブカメラがつけられていて、世界中の火山研究者が注目しています。
火口の様子がライブカメラで記録されている火山は、世界的にもほとんど例がないのです。

中岳では、灰噴火という、火山灰がもくもく上がる阿蘇山地域の典型的な噴火が毎日見られています。

さらに、活発になるとストロンボリ噴火が見られたこともありました。

火口のカメラで生のデータを収集することで、火山予測の研究にとても役立っているそうです。

こうして様々な火山が見られる阿蘇は、まさに火山の見本市というべき土地なのですね。



●「お役立ち火山」の所以

阿蘇カルデラの内部には古墳が90基ほどあり、タモリさんたちもひとつの前方後円墳を訪れていました。

これらの古墳の石室は赤く塗られていて、ベンガラという顔料が使われていました。

このベンガラが、火山の恩恵で作られているのだそうです。

カルデラの北西部、赤茶色の川が流れる地域は、土に大量の鉄分が含まれています。

ベンガラの原料となるのは、このあたりでとれる阿蘇黄土と呼ばれる赤い土。

地下のマグマは鉄分を含んでおり、このあたりの地下の穏やかな火山活動で地下水に鉄分が溶け出すことで阿蘇黄土が生まれます。

kazan_funka_magma.png

阿蘇黄土はベンガラだけでなく、クレヨンの黄土色の原料にもなっています。


また、阿蘇黄土が最も私たちの生活の役に立っている場面は、下水処理です。

硫化水素を含む臭い水に、阿蘇黄土のペレットをいれて振ると、あっという間に匂いがなくなります。

阿蘇黄土には、硫化水素の硫黄分を吸着する性質があるからです。

化学的に説明すると、硫化水素と阿蘇黄土の水酸化鉄が化学反応することで、硫化鉄と水に変わるのです。

阿蘇で採れる阿蘇黄土は、全国の半分近くの下水処理場に出荷していて、東京都では100%の下水処理場で阿蘇の土から作られた浄化剤が使われているのだそうです。

大都会、東京の人々は毎日必ず阿蘇山の阿蘇黄土の恩恵を受けているわけですね。



●阿蘇の農業

下水処理に使われるなど、メリットがある阿蘇黄土は、
一方で土を酸性にしてしまうため、農作業には天敵です。

阿蘇黄土の土壌は痩せた土地となり、作物が育たないのです。

そこでここに住む人々は昔から土壌改良を行ってきました。

カルデラを縁取る山、外輪山の上に土壌改良に役立ったあるものがあります。

それは、草原の草

阿蘇を一望できる観光名所としても知られる大観峰の周りにも、広大な草原が広がっています。

この草を刈って、畑に撒くだけで酸性の土が中和され、土壌改良できるのです。

今は重機で草を刈り取り、畑に撒いていますが、昭和ごろまでは人の手で草を刈り取り、畑に撒いていました。

阿蘇の外輪山に広がる草原は、1万6000ヘクタール。
これは日本最大の草原です。

これが、阿蘇の名産品である高菜などの美味しい農作物のもととなっているのですね。

この外輪山の草原が農業にあまりに重要だったため、かつては草原の土地を奪い合う争いがありました。

それを示すのが、草原に張り巡らされている土塁。

草原の草を使う集落はかつて150ものグループに分かれており、それぞれのグループが使える草原を隔てていた阿蘇地域の土塁の総延長は500㎞。

これは阿蘇から大阪まで届くほどの距離です。


また、阿蘇の草原の草は畑に撒くだけでなく、阿蘇の草原のススキが全国の茅葺き屋根に使われています。

全国的に草原が少なくなっている今、全国の文化財、寺院や集落の茅葺き屋根に阿蘇のススキが使われているのです。


草原は放っておくと森林化してしまうため、草原を保つには人の手による野焼きが不可欠です。
森林化を防ぎ、若草の成長を促す大切な営みです。

現在は毎年3月に一日かけて行われ、阿蘇の風物詩にもなっています。


阿蘇の草原の地層を見ると、草原が広がっていた年代は黒い土となっています。

そして、途中で火山灰の層があります。
これは7300年前、鹿児島と沖縄の間に位置する鬼界カルデラの噴火が作った層であることがわかっています。

そして注目すべきなのが、その地層の下にも黒い層があるということです。
年代でいうと、1万年ほど前まで、黒い地層があるのです。

このことから、縄文人が野焼きをして、草原を保っていたという説が唱えられています。

オーストラリアのアボリジニは、同じ時代に野焼きをして、狩猟をしやすくしていたということがわかっています。

縄文人も狩猟のためか、農業のためか、1万年も前から野焼きをして草原を保つ営みをしていたと考えられるのです。

今でも広がる阿蘇の広大な草原を、縄文人も同じように見ていたかもしれないと思うと、ロマンを感じますね。


古来からの地球の活動によって作られためずらしい地形と、人々が共存する阿蘇。

今でも私たちの暮らしを豊かにしています。

ずっと前に行ったことがあるのですが、
今回の知識を得てもう一度ゆっくり訪れてみたいと思いました。


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【ブラタモリ】お金持ちの高級住宅地、白金・白金台、謎の豪邸 [テレビ]

6月22日放送のブラタモリは東京の白金でした。

シロガネーゼと呼ばれるお金持ちが住む町として知られていますよね。

なぜそんな高級住宅地になったのか、興味深かったのでまとめてみます。


番組で紹介されていた高級住宅地の条件は
・豪邸
・緑
・高台
・治安
そしておまけに「ほどよい静けさ」。

ひとつひとつ見ていきます。

building_goutei.png


●豪邸:東京都庭園美術館

朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)と允子妃が住んでいた邸宅が紹介されました。
今は東京都庭園美術館となっています。

これは・・・この前、世界ふしぎ発見!でも紹介されていた建物ですね!

ブラタモリでは、入り口の唐獅子(狛犬?)についても触れていましたね。
これは昭和8年の建設当時、殿下の意向によって設置されたそうです。
設計者たちは反対したそうで、確かに洋風の建物には少々違和感があります。
でも、今となっては特徴的で、この建物の個性となっているのではないでしょうか。

建物にあるガラスが浮き出すような工芸は、ルネ・ラリックという20世紀前半に活躍したフランスの工芸家が、この館のためだけに造ったものです。
型の中にガラスを流し込んで造るのだそうです。

この建物は、全体がアール・デコ様式で造られています。
1910年~1920年頃にフランスで流行した幾何学的な模様が特徴的な建築様式です。

ある広間の天井は漆喰で造られているのですが、柔らかく、乾くのが遅い漆喰で天井の曲線や段差を造るのはかなりの技術力が必要だったそうです。

漆喰好きというタモリさんもご満悦でしたね。

世界ふしぎ発見!でも紹介された建設直後の映像も紹介され、シロクジャクも映っていました。

しかしこの豪邸も、失われる危機に瀕したことがありました。
戦後、GHQによって皇族にも税金が課せられることになると、朝香宮家にも全財産の79%もの税金が課せられました。

この豪邸も売却される危機にありましたが、戦後活躍した政治家、吉田茂が気に入り、外務大臣公邸として使ったために守られました。
吉田茂は当時の総理大臣を兼務していたため、実質的に総理官邸として使われていました。

個人へ売却されるのではなく、公邸になったために、あまり手が加えられなかったというわけです。

書斎は特に吉田茂が気に入っていた部屋です。
気に入っていた理由の一つは、書斎から建物の正面に来た来訪者がよく見えるためだったとか。


●緑:自然教育園

朝香宮家が位置する大きな緑地は、国立科学博物館付属 自然教育園の土地です。
現在では国の天然記念物ですが、この緑地も失われる危機にあったことがあります。

mori.png

タモリさんたちが訪れたのは、緑地の外の不自然な道路。
幅は広いのに短い道路が高速道路の脇にあります。
ここは、かつて高速道路の計画ルートとなっていました。
そのルートだと、自然教育園の森となっている土地をまっすぐ突っ切るように高速道路が通される予定だったのです。

国の天然記念物である自然教育園を通すことに当時の文部省が反対。
これを白金の住民も後押しします。
その結果、高速道路は緑地の外側を通るルートに変更されました。
タモリさんたちが訪れた不自然な道路は、そのときに少しだけ購入された、不採用ルートの名残だったのです。

他にも、高速道路の下の歩道が途中で不自然に終わっている場所も訪れていました。
高速道路を建設した当時の建設省は、高速道路に加えて歩道を通そうとしていましたが、そこも自然教育園の森だったため文部省がそれを許さず、今の形となったのです。

高速道路のルート変更だけでなく、この緑地を守る戦いはいくつもあったそうです。

自然教育園の名誉研究員、矢野さんが紹介したのが珍しい植物。
一見、何の変哲もない草。
トラノオスズカケという、もともとは九州や四国に自生する絶滅危惧種です。

なぜ東京の真ん中にこのような珍しい植物が自生しているのか。

それは、江戸時代、この場所に高松藩の大名屋敷があったためです。
このとき植えられたと考えられる植物が、現在まで残っているというのです。

さらに江戸時代に植えられた樹齢300年以上とされるクロマツ。
不自然な伸び方をしています。
これは江戸時代、人工的に綺麗な形となるように庭師が曲げていたものを、
明治以降は人工的に曲げることをやめ、自然に育った結果です。

さらに遡って室町時代は、豪族によって自然教育園の土地には土塁が作られていました。

この豪族は当時かなりの範囲に土塁を築いており、かなり裕福だったと考えられています。
そのことから銀をたくさん持っていた。
「銀」は室町時代、「しろかね」と言われていて、これが地名の由来となったとされています。

しかし、タモリさんはこの説に異論を唱えており、
銀を持っていれば隠すので地名になるほど有名になるのは考えにくいのではないか、と話していましたね。


次に見たのは、明治時代に植えられたジャヤナギ。
この森は明治時代は火薬庫として使われていました。
この時代は炭を作るのに適していたためジャヤナギが植えられたそうです。

明治時代、倉庫以外の自然には手をつけなかったため、上記のクロマツも自然に育ちました。
そして大正時代は宮内省管轄の御料地となり、
昭和24年以降は国の天然記念物となりました。

このように江戸時代の大名屋敷から自然の森が守られ続け、武蔵野の原風景を観察できる場所となったのです。

空飛ぶ宝石と言われるカワセミやオオタカなど鳥類もたくさん生息しています。

月の半分以上訪れ、写真を撮る方もいるそうです。


●高台:大名屋敷の名残が残る複雑な地形

白金高輪駅付近には、三光坂という坂道があります。

聖心女子学院が付近にあり、タモリさんも入って捕まった思い出があるそうです(笑)
上皇后美智子様も聖心女子学院の卒業生です。

ただ、番組では学院の門には入らず、その前に続く長い道を歩きます。
これは実は聖心女子学院の私道です。

これも江戸時代の大名屋敷の名残で、
聖心女子学院の敷地は松平家の屋敷がそのまま使われています。
その敷地が細長い道で外部とつながっていたため、今にまで道が残っているのです。

ここ以外にも、大名屋敷の区画をそのまま使っている邸宅が多くあります。

謎の豪邸といわれることもある、大きな洋館。
入ることはできませんが、有名な時計メーカー(SEIKO?)の創始者がかつて所有していた邸宅です。

現在では海外の不動産会社が保有しているそうです。

急なカーブや傾斜がある住宅街。
この複雑さが開発を難しくしたため、大名屋敷の区割りが守られたそうです。

こうして残った江戸時代の区割りは、行き止まりや直角カーブも多くあります。
このような地形は、不便なようであるメリットを生んでいます。

それが最後のポイント、●治安です。

こうして高級住宅街の条件がそろった白金エリア。
大正から昭和初期にかけて富豪たちが次々と豪邸を建てます。
それらは、今でも結婚式場やホテルとして使われています。


さらにおまけの条件は「ほどよい静けさ」。

それが見られるのは、昭和46年にできた白金のメインストリート、プラチナ通りです。

片側2車線の大きな道路ですが、交通量は少ない。
これは、品川方面に抜けられず、行き止まりになっているからです。
これは環状4号線を作ったときに、もともと品川駅までつなげる予定でしたが、予算が足りず、白金で行き止まりとしたためです。

このことで街がゆったりし、「ほどよい静けさ」を実現しているのです。

ただ、現在、長らく止まっていた環状4号線の延伸計画が再スタートするという話もあるようです。

これから変化し続けていくのか、変化せずに守られていくのか。
いずれにしても過去の様々な偶然が重なって生まれた高級住宅街、白金。

住むことは難しいので。。。一度ゆっくり歩いてみたい街ですね。


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皇室ゆかりの地をめぐるロイヤルツーリズム【世界ふしぎ発見!】 [テレビ]

6月8日に放送された「世界ふしぎ発見!誰でも行ける皇室ゆかりの地 ロイヤルツーリズム」を見ました。

すぐにでも行ってみたくなる、関東周辺の皇室ゆかりの場所を紹介したいと思います。

ミステリーハンターはタレントのハリー杉山さん。
第5代イングランド王エドワード1世の直径の子孫でもあるそうです。

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●迎賓館 赤坂離宮

まず紹介されたのは迎賓館赤坂離宮。
明治時代に当時の皇太子で後の大正天皇の住まいとして建設されました。

欧米列強に日本の存在を示す建築物として位置づけられ、
フランスのヴェルサイユ宮殿を参考にしたデザインなのだそうです。

現在は一般公開されていて、誰でも訪れることができます。

こちらは東京にあるということもあり、かなり有名だと思いますが、実は他にもこのように一般の人も訪れることのできる皇室ゆかりの場所が多くあるのです。


●赤坂 明治記念館

今は記念館ですが、ここも誰もが入れる皇室ゆかりの宮殿のひとつです。

ここにあるのが、金鶏(きんけい)をあしらったデザインのダイニングホール「金鶏の間」。

金鶏は空想上の動物で、幸運を呼ぶと言われています。
金鶏の間はもともとは御会食所として、天皇が外国の国賓と会食を行っていた場所です。

明治14年に初めて日本が国賓として迎えたイギリスのジョージ王子(後のジョージ5世)も、ここで明治天皇と会食したのだそうです。

そのとき、食器はイギリスに特注し、王子たちが自国の宮殿で使っていた食器と同じものが日本の金鶏の間でも使われたそうです。

そしてもちろん料理も欧米スタイルの一流の品が出されました。

このように、明治の時代の日本は欧米列強のトップをもてなすことで植民地化を免れたとも言われています。

当時のメニューを再現したという、トリュフをあしらった鶏のガランティーヌは、おいしそうでしたね。


●旧朝香宮邸(白金の東京都庭園美術館)

次に紹介されていたのは白金の東京都庭園美術館。

かつては朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)と允子妃の邸宅でした。

内部には独特なデザインの噴水期があります。
フランスで1920年代に流行したアールデコのデザインだそうです。

允子妃がフランスに滞在していた映像も残っており、服装なども流行の最先端だったことがわかります。
こちらの東京都庭園美術館では、この映像も一般公開されています。

世界ふしぎ発見、一つ目のクエスチョンは、朝香宮ご夫妻が住んでいた時代にこちらの邸宅で放し飼いにされていた生き物。
ヨーロッパの宮殿でも飼われていたそうです。



正解は・・・・・・・

白クジャク!
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ドイツから送られたもので、当時は何匹も飼われていたそうです。

今は飼われていませんが、全て死んでしまったのでしょうか。。。
真っ白な孔雀は見たことがありませんでしたが、とても綺麗で幻想的な動物でした。


●日光の英国大使館別荘記念公園

中禅寺湖のほとりに建てられたシックな建物です。
日光の美しい湖の景色を臨むことができます。

さらに付近にはイタリア大使館別荘記念公園もあります。

日光は夏でも気温が30度を超えないため、明治時代から各国の大使館が別荘を建て、大使たちは夏の間はこちらで過ごしていたのです。

いずれも入場料200円で入れる穴場の観光スポットです。


●日光 田母沢御用邸

現在記念館となっているこちらの御用邸も、明治時代に建てられたものです。
入園料は550円です。

大正天皇が皇太子時代に立てられました。

田母沢御用邸には謁見所もあり、天皇陛下が帽子を置く専用のテーブルである卓子もあります。

さらに、剣璽の間という、三種の神器を置くためだけの部屋があります。

いくつかある御用邸の中でも、剣璽の間はここにしかないのだそうです。

大正天皇の時代、一泊以上の外泊の際は三種の神器のうち、剣と勾玉を持って外出していました。

剣と勾玉を置く場所は繧繝縁(うんげんべり・うげんべり)という畳縁が使われています。
繧繝縁はかつては天皇家のみが使うことのできた最も格式の高い畳縁です。
今では一般にも広まり、ひな人形にも使われています。

自然に囲まれた田母沢御用邸は大正天皇が特に気に入っていた場所で、滞在日数はのべ974日間にも上ったそうです。

趣味としてビリヤードが好きだった大正天皇が使っていたビリヤード台も残されています。
台のある部屋は御玉突所(おたまつきじょ)と呼ばれています。
ポケットのないスタイルのビリヤード台で、今とは違った遊び方をしていたようですね。


●沼津御用邸記念公園

東京よりも平均気温が高く、昭和天皇が冬の寒さをしのぐためによく訪れた沼津御用邸。

ここでも謁見所が公開されています。

さらに、昭和天皇が使っていたお風呂場である御料浴場も見ることができます。

当時の高貴な方は浴衣のような服を着て、掛かり湯という方法で入浴していたそうです。
そのため、ここの浴場には浴槽などはありませんでした。



●箱根の旧宮ノ下御用邸

こちらも明治に建てられた御用邸。

今は旅館とレストランになっていますが、照明やふすまなどは当時のままだそうです。

二つ目のクエスチョンは、折り鶴や菊、笹などの形の金具。
ヨーロッパでは見られないこの金具は何に使われたものでしょうか、というもの。


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正解は・・・・・・・・

釘隠し!

石造りの建造物が多いヨーロッパに対して、木造建築が多い日本家屋の独特の文化なのですね。



●猪苗代の有栖川宮旧御別邸、天鏡閣

天皇家の親戚の宮家が使っていた邸宅を御別邸といいます。

福島県の猪苗代にあるこちらは明治41年に造られた御別邸。
入場料は360円です。

こちらには海外から授かった勲章が数多く展示されています。

有栖川宮威仁(ありすがわのみや たけひと)親王殿下は、明治天皇のご名代として代わりに諸外国を訪問し、活躍されていたのです。

展示されているイギリスのナイト・グランド・クロッス・バス頸飾は、国の元首しか授かることのできない最上位の勲章です。
「Tria Juncta in Uno」イングランド、スコットランド、アイルランドが一つとなる、という意味のバス勲章のモットーが書かれています。

こちらをはじめ、ダイヤや真珠をふんだんに使った各国の勲章が展示されています。

有栖川宮家は、戊辰戦争の際には新政府軍を率いた宮家です。

そのときの大将は、威仁親王の兄である有栖川宮熾仁(たるひと)親王。

会津の地で、鶴ヶ城の旧幕府軍を鎮圧しました。

明治時代、戊辰戦争の戦禍の傷跡が残る猪苗代湖畔に、有栖川宮家は御別邸を建てました。
ここに皇族や政治家を招き、復興の力になろうとしたのです。

その当時の緊張を物語るように、御別邸には隠し部屋が設けられていました。


●新宿御苑

新宿駅の近く、大都会のど真ん中にある新宿御苑も、かつては皇族専用の庭園でした。

昭和天皇の皇太子時代はゴルフコースとなっていて、昭和天皇もゴルフを楽しんでいました。

さらに、皇室の庭園となる前の明治時代は、農事試験場として、植物の研究が行われていたそうです。

明治時代は大きな温室があり、外国から紹介された新しい植物などの研究が行われていました。
現在の新宿御苑でも植物の研究や絶滅危惧種の保全活動を行っています。


3つめのクエスチョンは、新宿御苑で研究開発されて日本に出回ることになったフルーツ。
その当時のものがホルマリン漬けとして今でも新宿御苑に残されています。




正解は・・・・・・・・

マスクメロン!
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イチゴの原種も栽培されていて、今では当たり前となったフルーツは新宿御苑で品種改良の研究がなされていたのですね。



皇室の宮殿が建てられた場所は自然豊かな場所が多いですね。
いつか、私も日本人として天皇家のロイヤルツーリズムに出かけてみたいです。

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